2015年3月31日火曜日

オリエント急行の彼方、メソポタミヤ文明、アガサ・クリスティ

オリエント急行の終着・始発駅のあるイスタンブルは、トルコの大都市だ。 ここから更にトルコの国内鉄道に乗り、トルコを横断すると、イラクに入る。 イラクの首都はバグダッドだ。 名探偵ポアロは、ここでも一仕事したのだ。

『メソポタミヤの殺人事件』(原題:Murder in Mesopotamia)は、アガサ・クリスティが1936年に発表した長編推理小説。 エルキュール・ポアロが登場するシリーズのひとつ。

・・・・・・ イラクのバグダッド近くの発掘現場、ポワロは好意にしているロザコフ伯爵夫人に呼ばれ、あるホテルへ向かうが、夫人はそこにはいなかった。 そこでヘイスティングスの親戚が参加している、メソポタミア文明の遺跡発掘現場を訪れた。 そこで、発掘隊長のライドナーの妻ルイーズから相談を受ける。 死んだはずの前夫から脅迫じみた手紙が届いており、命を狙われていると言う・・・・・・

アガサ・クリスティの代表的な作品の中には中東を舞台にしたものが多い。 その理由の1つに、1930年代初め、彼女が中東専攻考古学者マックス・マローワン氏と再婚したから、という説明がある。 当然、夫婦で楽しく中東を旅したのでしょう。

<メソポタミア文明>



メソポタミア文明の起源は、紀元前5千年頃、後にメソポタミアと呼ばれるチグリス・ユーフラテス両河に挟まれた肥沃な地帯に、とある農耕民族が住み着いた。 彼らの住み着いた土地は、耕作や放牧に適して、近くの湿地帯では、魚と鳥が豊富に得られる、理想的な環境だった。


その農耕民族は、ウバイド人と呼ばれた。 その後、千年以上もそこに住み着き、泥でレンガをつくり街や神殿を建てた。 その後のメソポタミア文明の基礎をつく った民族だ。 しかし、彼らは、文字を持たなかった。 だから詳しい記録を残していない。

<メソポタミア文明遺跡>



紀 元前3800年頃、どこからかシュメール人と呼ばれる民族がやって来た。 すると、メソポタミアの地は、大繁栄となった。 美術、建築、宗教に加えて、社会組織から楔形文字の発明に至るまで、すべて、シュメール人の画期的な業績だ。 世界最初とされる船や車輪つき戦車なども、シュメール人によってつくられた。 しかし、宇宙人説まで有る、シュメール人の民族系統は、未だに不明である。

<メソポタミア 楔形文字>





紀元前3500年前ごろには、シュメール人たちは、エリドゥ、ウル、ウルク、ラガシュと言った高度な都市国家を次々とつくり上げた。 それらの諸都市は、世界最古のもので、この文明は、メソポタミア文明と呼ばれている。

現在、イラクの首都であるバグダッドは、かってメソポタミア文明が栄えた頃の中心辺りに位置している。 

バグダッドは、本来、古代文明のロマンが花咲く、悠久の都なのだ。

マッサン、 ロンドン到着、 ヴィクトリア駅から


マッサンを乗せた香取丸は、ジブラルタル海峡を通過して、ポルトガルの沿岸を北上する。 そして、ビスケー湾の沖合いに至る。 そこで、針路を東北東に取り、ドーバー海峡を目指す。

<ドーバー海峡>


ドー バー海峡(フランスではカレー海峡と呼ぶ)の最も狭いところは34キロだ。 この海峡を通過して北上し、西に針路を取る。 そうして、テムズ河の河口に入り、約70キロほど遡ると、ようやくロンドン東部に在るロンドン港に到着する。 テムズ河沿いのロンドン港は、当時、世界最大の港であった。

長かった約50日間の船旅は終わった。 マッサンは下船して、まず大きく背伸びをしてから、ロンドン中心部に向かったことだろう。 スコットランドのグラスゴーに行くには、ロンドンから鉄道を利用するのが一番便利だ。

<ロンドン港>



し かし、好奇心旺盛なマッサンは、太陽の沈まない国である大英帝国の帝都ロンドンに、少なくとも数日間は滞在して、見聞を広めたはずだ。 マッサンは、ヴィクトリア駅の裏手に在るB&B(ベッド・アンド・ブレックファースト)に宿をとったと想像する。 その宿を根城にして、ロンドンのあちらこちらを精力的に見て回ったことだろう。

<バッキンガム宮殿>



ロ ンドンの地下鉄は、1863年1月に営業が開始されて、その後、順調に路線を伸ばしている。 マッサンがロンドンに着いた1918年には、現在のロンドン地下鉄の主要な路線は既に運行していたようだ。 因みに、東京の地下鉄は、1927年に、今の銀座線の一部が営業を開始した。 マッサンにとっては、生まれて初めての地下鉄乗車体験だった。

し かし、若いマッサンは、地下鉄には余り乗らず、都市の景観を楽しみながら歩き回った。 まず、バッキンガム宮殿に行った。 それから、セント・ジェームズ・パーク、テムズ河河畔 、ビッグ・ベンとウエストミンスターと見て回った。 次の日には、ウエストミンスター大聖堂からハイド・パークやケンジントン・ガーデンまで足を伸ばした。 3日目には、大英博物館をじっくり見学したのではないか。 ・・・・・などなど、マッサンは、感動の数日間を過ごした。

<ビッグ・ベンとウエストミンスター>



ロンドン見学に大満足したマッサンは、ロンドン・ヴィクトリア駅から鉄道列車に乗り込み、グラスゴーに向かった。 今は、ロンドンから4時間半ほどで、グラスゴー・セントラル駅に到着するが、当時は、10時間くらいかかっただろう。

こうやって、マッサンは、スコットランドのグラスゴーに着いた。

長旅、お疲れ様!!

マッサンの一人旅、 地中海クルージング、 ジブラルタル


マッサンを乗せた香取丸は、エジプトのポート・サイドを出港して、地中海に乗り出し、北西に針路を取った。 フランスの南部に位置するマルセーユを目指して、6日間の航海だ。

地中海は、ジブラルタル海峡からキプロス島の東まで、非常に横長の海だ。 東西の距離は約3500キロだ。 ポート・サイドは、この地中海の東端南部に位置している。

<クレタ島>


香 取丸は、エジプトの沿岸を進み、クレオパトラで有名なアレキサンドリアを遥か左舷に見ながら航行する。 そして、ギリシャのエーゲ海に浮かぶ、クノッソス宮殿のあるクレタ島に接近していく。 そこで針路を西北西に転じる。 新針路の目標は、イタリア南端、シチリア島(シシリー島)の南方に浮かぶマルタ島だ。 現在はマルタ共和国という人口43万人のミニ国家だが、マッサンの時代は、イギリスの支配下にあった。

<マルタのバレッタ市>




マルタ島を左舷に見ながら航行を続け、針路を北西に転じる。 針路の先には、イタリアのサルデーニャ島南端が在る。 サルデーニャ島の南端をかすめるように航行して、針路を北北西に転じて、一路、南仏のマルセーユを目指す。

マ ルセーユは、陽光溢れる南仏の港街だ。 ここでは、1日間の碇泊だ。 久しぶりの大地なので、マッサンは上陸したでしょう。 この街は、18世紀末には産業の要地となっていて、現在の商工業を中心とする市街が発展し、19世紀半ば以降には、港湾施設が充実し多くの工業が興った。 現在のマルセーユ は、フランス最大の港湾都市で、地中海のリオン湾を臨む文化都市でもある。

<マルセーユ>


マ ルセーユを出港したら、針路を南西にとり、フランス南部沿岸からスペイン東部沿岸を沿うようにジブラルタル海峡を目指して航海する。 やがて、香取丸は、スペイン南岸とアフリカ大陸北岸に挟まれた、アルボラン海に入る。 ジブラルタル海峡まで、あと一息だ。 マルセーユからジブラルタル海峡までの航海には、2~3日間を要したであろう。

ジブラルタル海峡は、ヨーロッパ大陸とアフリカ大陸を隔てる海峡だ。 海峡の幅は、イベリア半島最南端のタリファ岬〜モロッコのアルカサル・エ・セリル間が最も狭く、14キロしかない。

<ジブラルタル海峡>




ジ ブラルタルは、イベリア半島の南東端に突き出した小半島のことだ。 ここはスペイン領ではなく、18世紀からイギリスの海外領土なのだ。 ジブラルタル海峡を望む良港を持ち、地中海の出入口を抑える戦略的要衝の地だ。 すなわち「地中海の鍵」として、軍事面と海上交通上でも重要視されてきた。 現在もイギリス軍が駐屯している。

マッサンを乗せて、香取丸は、ジブラルタル海峡を通過して、ようやく大西洋に入る。

マッサンの船旅、 インド洋からアラビア海、 紅海からスエズ運河

1918年、マッサンは、欧州航路に就航している香取丸の3等室に乗り込んで、船旅を楽しんでいる。 アジアでは、上海、香港、シンガポールと各地に上陸して、見聞を広めた。

シンガポールを出港すると、翌日にはマラッカ海峡の要地マラッカに着き、半日碇泊して、翌日には同じマレー半島のペナン島に着く。 マラッカもペナンも半日碇泊なので、マッサンは、美しい風景を船上から眺めただけで、上陸しなかっただろう。

<ペナン島の夕陽>



神戸を出港してから、ペナン島に着くまでに、すでに20日が過ぎている。 ここまでは、まるで亀さんのような歩みで船は進む。 おそらく、アジア各港では、下船する客や乗船する客が多かったと思われる。

ペ ナン島を出港すると、いよいよ、5日間をかけてインド洋を横断する遠洋航海となる。 セイロン(現スリランカ)のコロンボに到着するが、碇泊は1日だけだ。 コロンボを出港して、アラビア海を横断してバブ・エル・マンデブ海峡を通過、紅海に入り北上する。 12日間の航海だ。 そして、ようやく、スエズ運河に到着する。

<コロンボ港>



ス エズ運河は、1869年に開通した。 建設当初のスエズ運河は全長164キロ、深さ8メートルだった。 今はもっと長くなり194キロだ。 スエズ運河を挟む地中海と紅海には海面の高度差がほとんど無い。 運河を通過するには、今でも時速20キロ の速度で10時間近くかかる。

な ぜなら、運河を通行できる航路が、今も昔も1レーンだけなのだ。 船がすれ違う場所は、バッラ・バイパスやグレートビター湖など5箇所に限定されている。 例えば、北から1船団が早朝に進入し、グレートビター湖に停泊して、南から上る船団を待ち、ここですれ違う。 この南からの船団は、バッラ・バイパスまで進むと停泊して、北から来る2番目の船団を待ってから、すれ違うのだ。

<スエズ運河>



マッサンを乗せた香取丸は、半日以上をかけてスエズ運河を通過したと想像する。 マッサンは船上から、岸辺をのんびり行くラクダを眺めていたのではないだろうか。

運河を通過し終えた所が、地中海に面するエジプトのポート・サイドだ。 さらに、ここで半日碇泊して、食料などを積み込んだと思われる。

いよいよ地中海だ。

フランスのマルセーユを目指して、マッサンを乗せた香取丸は、ポート・サイドを出港する。

マッサン、 客船で一人旅、 欧州航路

1918年(大正7年)、マッサンは、神戸から日本郵船の大型客船、香取丸9849トンの3等室に乗り込んだ・・・・・・と想像しよう。

3等室は、今も昔も変わらない船の最下層の大部屋だ。 共同トイレで共同浴室だ。 しかし、若いマッサンにはまったく苦にならず、むしろ、いろいろな船客と仲良くなり、一緒に船旅を楽しんだことでしょう。

前回記事で紹介した船旅の宣伝パンフレットの続きを見てみよう。

・・・・・・ 船内には、和洋の書籍、楽器、蓄音器、碁、将棋その他の運動遊戯器具も備えています。 甲板には、お客様用に、籐の肱掛椅子や長椅子を配置しています。 広い甲板の長椅子に横臥して、青い空と青い海の水平線を眺めたり、または読書に耽ったりするのは、海上旅行においてのみ得られる楽しみです。 また熱帯航海中は、上甲板に清鮮な海水を湛えて、大きな水泳プールを設け、長い航海中のお客様が退屈しないよう心がけています。・・・・・・

船賃が高いだけあって、いろいろ気を使い、サービスに努力しているのが良く分かります。

さて、寄港地と碇泊日数を見ると、アジアでは、上海に2泊、香港に1泊、シンガポールに1泊している。

上海、香港、シンガポールは、当時、イギリスの植民地または準植民地であった。 マッサンは、これらの都市に上陸して、当時の大英帝国の強大な威勢を実感したのではないだろうか。

<上海バンド>



上海では、香取丸は黄浦江にあった大日本帝国総領事館の近くに接岸したのだろうか。 マッサンは、バンドに立ち並ぶ、立派な西洋建築ビルディングを眺めて、さぞ感激したことでしょう。

上海を出港すると、5日間の航海で、香港に入港する。 香港でも、マッサンは上陸して、下の写真のビルディングの前に立って、ユニオン・ジャックの英国国旗を見上げていたかもしれません。

<香港>



香 港を出港して、6日間の航海で、シンガポールに入港する。 シンガポールまでの船客も大勢居たと思われる。 横浜からシンガポールまでは3等で49円、ロンドンまでの約7分の1の船賃だ。 それでも、現在価格で15万円から20万円くらいの感覚だ。 マッサンは、シンガポールでも上陸してラッフルズ・プレイス辺りまで見学したかもしれない。

<ラッフルズ・プレイス>




マッサン、 船旅、 新婚旅行

昨年、テレビでマッサンを見ていたら、マッサンとエリーが結婚して、スコットランドを出発、日本に向かうシーンが有った。 短いシーンの中で、旅行ルートが絵図で示された。

それは、イギリスからニューヨークに行き、アメリカ大陸横断鉄道で旅をして、アメリカ西海岸から再び船に乗り、太平洋を横断して、日本に到着するというものだった。

それを見て、若い二人にとっては、素晴らしいロマンチックな新婚旅行だったのではないかと想像をたくましくした。 私が想像する二人の新婚旅行は後日に書きたい。

二 人の素晴らしい新婚旅行の2年前、1918年(大正7年)、マッサンは、摂津酒造の社命により、単身、スコットランドのグラスゴー大学に留学した。 当然、船で行った。 東南アジアをまわり、スエズ運河経由で行った。 当時の欧州航路の寄港地、航海日数、碇泊日数は下表のようであった。

<香取丸 9849トン>


英 国ロンドンまでの船賃は、1等が975円、2等が650円、3等が362円であった。 一般家庭の平均月収が100円という時代なので、3等でも月収の3・5倍以上した。 今の感覚だと、3等が100万円以上もする感じだ。 社命とは言え、マッサンは、若かったので3等で行ったのだろう。 ロンドンまで、スエズ運河を通過して、52日間の船旅だった。
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<ダンス デッキ>


当時、船会社の宣伝パンフレットは、以下のような内容だった。

本 航路は2週に1回、横浜を出帆して、上記の各寄港地を経てロンドンに到着します。 使用する船は、すべて8千トン以上、2スクリューの大型汽船で、快速力、堅牢構造、最新設備の船です。 客室、食堂、談話室、診察室、酒保、浴室、理髪室、電燈、電扇、暖房器、製氷器、冷蔵庫、消火器等、すべて船客の安全と快適な船旅のため、最も進歩した設 備を備えています。 もちろん、無線電信の設備もあり、いつでも陸上との通信が可能です。

乗組員は、船長以下、技量と経験が十二分の者たちです。 乗組医師は、無料で診察いたします。理髪人や洗濯人なども居り、船客のお求めに応じます。 給仕や女給仕などが、親切にお世話いたしますから、ご不自由をおかけするような事は、全くありません。

若かったマッサンは、どのような船旅をしたのでしょうか?

想像力を刺激されますよね。

マッサン、 エリーが生まれたスコットランド、 グラスゴー大学

イギリス、または、英国の正式名称は、the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland。 日本語では、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国と訳される。 イギリスは、4ヶ国の連合だ。 スコットランド、北アイルランド、ウエールズ、イングランドの4ヶ国だ。

イギリスの政体は、日本と同じ立憲君主制で、国家元首は君主(現在はエリザベス2世)。 1689年の名誉革命の「権利の章典」に従い、今も「国王は君臨すれども統治せず」。 王室の存在は、日本の皇室に似て、象徴的かつ儀礼的、国民に深く愛されている。

ス コットランドの名称は、この地を統一したスコット人に由来する。 スコットランド・ゲール語では「アルパ (Alba)」と呼ばれ、ラテン語では「カレドニア」と呼ばれる。 首都のエディンバラは、スコットランド第2の都市であり文化と金融の中心だ。 最大の都市であるグラスゴーには、スコットランドの人口の40%が集中している。 気候は、北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)と偏西風の影響によって、高い緯度の割には比較的穏やかである。

<バグパイプ>






マッ サンが学んだグラスゴー大学(University of Glasgow)は、グラスゴー市にあるイギリスの国立大学で、1451年に創設された。 500年以上の歴史を有する英語圏最古の大学の一つで、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学と並ぶアンシャン・ユニヴァーシティーに属する。

蒸気機関の発明や電力単位のワット(W)で有名なジェームズ・ワット、経済学の始祖であり国富論で知られるアダム・スミス、物理学者のウィリアム・トムソンなどを輩出している。

日本の留学生は、化学の高峰譲吉、ニッカの竹鶴政孝、男爵いもの川田龍吉男爵、三菱財閥の岩崎隆弥、物理学の田中舘愛橘など。 なお、2007年時点で、グラスゴー大学出身のノーベル賞受賞者は7名に上る。

<グラスゴー大学>






私、舞元主杏も昔この大学で、非常に先進的なラテン・アメリカ地域学を学び、勉強には苦労しましたが、哲学修士の称号を受けています。 魅力あふれる大学です。 大学生の皆さんには、ぜひ留学をおすすめします。

アンシャン・ユニヴァーシティー ( Ancient University ) とは、中世に創設された英国六大学の総称。

オックスフォード大学 (1249年)
ケンブリッジ大学 (1284年)
セント・アンドルーズ大学 (1411年)
グラスゴー大学 (1451年)
アバディーン大学 (1494年)
エディンバラ大学 (1582年)

マッサン、 スコットランド、 ウイスキー

ドラマ、マッサンの主人公は、亀山政孝(俳優は玉山鉄二)。 ヒロインは、エリー(俳優はシャーロット・ケイト・フォックス)。 このテレビ・ドラマは、実話を元にしている。 実話では、マッサンは竹鶴政孝さん、エリーはリタさんである。

竹 鶴政孝は、1894年(明治27年)、広島県竹原市にある作り酒屋の3男として生まれた。 大阪高等工業学校醸造科を卒業後、摂津酒造に入社。 1918年(大正7年)、社命によりスコットランドのグラスゴー大学に留学した。 遠い異国で、政孝はホームシックにかかった。

そんな頃、政孝は開業医一家と親しくなった。 その一家の長女がリタだ。 ジェシー・ロバータ・カウン(愛称リタ)は、1896年(明治29年)、英国グラスゴー郊外の医師の家庭に3人姉妹の長女として生まれた。 政孝との出会いは、リタが22歳の初夏だった。

<グラスゴー大学 >






恋に落ちた二人は、出会いから半年後に、周囲の反対を押し切って結婚した。 それからの政孝は、愛妻を得て、蒸溜所の実習で素晴らしい成果を上げ、ウイスキーづくりの自信を深めた。 リタとの結婚が、政孝の運命を開いたのだ。

こ うして二人は、日本に向かう船に乗った。 日本でのリタの課題は、日本の生活に馴れることだった。 リタは日々努力を重ね、結果、日本の女性以上に日本人らしい女性になった。 日本語も熱心に学んだ。 政孝を初めは(マサタカサン)と呼んでいたが、次第に縮まり(マッサン)と呼ぶようになった。 マッサンとリタは、人もうらやむ仲睦まじい夫婦だった。

マッ サンは、すぐにウイスキー蒸溜所を建設するつもりだった。 しかし、日本経済は、不況の真っ最中で、摂津酒造は莫大な投資ができなかった。 マッサンは摂津酒造 を退社した。その後、約1年間、自宅近くの中学で化学教師をし、リタは英語とピアノを教えながら家計をまかなった。

そ んなマッサンに、大正12年の春、寿屋(現サントリー)の社長、鳥井信治郎が訪れた。 鳥井も国産ウイスキーづくりを夢見 ていた。 政孝は10年契約で寿屋に入社し、ウイスキーづくりに専念して山崎工場を設立した。 こうして、昭和4年の春、日本初の本格ウイスキーが生まれた。

10年の契約期間が過ぎ、マッサンは、昭和9年3月に寿屋を退社した。 同年7月、マッサンが、ウイスキーづくりの理想郷と考えた北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を創立した。 リンゴ・ジュースや果汁ゼリーをつくり、ウイスキーができるまでの繋ぎ商品とした。

昭和15年10月、初めて独力で生み出したウイスキーを、マッサンは、「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。 ウイスキーづくりを夢見て、スコットランドに渡ってから、22年の歳月が流れていた。

体 があまり丈夫でなかったリタは、60歳を過ぎてから入退院を繰り返すようになった。 64歳の誕生日を迎えた1ヶ月後の昭和36年1月17日、マッサンに看取られながら永眠した。 リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられた。 マッサンは、リタの墓に、自分の名前も一緒に刻んだ。 あとは、ただ自分の命日を入れるだけだ。

「ウイスキーづくりにトリックはない」 これはマッサンが生涯持ち続けた信念であり、口癖だった。 世界でもまれな石炭直火蒸溜、この伝統的な製法を守り続けているのは、世界で余市蒸溜所だけと言われる。 職人の年季と勘による微妙な火の加減が、果物が熟したような芳香のモルト・ウイスキーを作る。 マッサンは、理想のウイスキーづく りを追い求めながら、昭和54年8月29日に亡くなった。 享年85だった。

<エディンバラ>




スコッチ・ウイスキーとは、スコットランドで製造されるモルト・ウイスキーのこと。 モルティングとは、大麦を発芽させて麦芽を作ることをいう。 麦芽を乾燥させる際に燃焼させる泥炭(ピート)に起因する、独特の煙のような香り(スモーキー・フレーバー)が特徴だ。

モ ルト・ウイスキーの原料として使用される大麦は、粒が大きくデンプンを多く含む二条種だ。 大麦には種を蒔く時期によって春麦(スプリングバーレー)と冬麦(ウインターバーレー)があり、春麦を使うのが普通だ。 なお、ウイスキーはイギリスにとり5大輸出品目の一つで、その規模は、ほぼ全世界の200か国に輸出し、金額は日本円にして約6000億円だ。

スコットランド人気質は、安易に妥協しない、あくまで独自性を主張して、理不尽なことには断固として反対する。 たった一人になっても一人だけで絶対に反対する。 そして、自分が正しいと思うことは、どこまで主張し続け、最後には逆転させるというしぶとさだ。 

メル・ギブソン主演映画ブレイブ・ハートに見られるスコットランド魂は、英国人(ジョンブル魂)の更に上手を行くような頑固さらしい。

そうすると、スコットランドの独立問題は、まだまだ長引きそうですね。

大連のロシア街~幻の機関車アジア号

三八広場のマック・カフェで、のんびりコーヒーを飲みながら、イーブックを読んだ。 いろいろ教えてくれた女性店員に、謝謝と言って外に出た。 再び、路面電車に乗り、大連駅まで行った。 青泥窪商業区まで、ぶらぶら歩いた。

百年城に入り、最上階にあるフードコートで昼飯にする。 もう2時すぎなので空いている。 麺類が食べたかったので、肉そばを食べた。 麺は細めのウドンという感じで、スープが絶妙の味付けだった。 ごちそうさま。

肉 そばを食べた後、ほとんど客が居ないので、のんびりと観光地図を広げて、次の行動予定を考えた。 そうだ、あの勝利橋を渡って、機関車アジア号とロシア街を見に行こう。 百年城を出て、勝利広場に戻り、長江路を10分ほど歩いた。 直ぐに勝利橋に着いた。 橋の下の多数の線路を見下ろしながら、橋を渡った。 50メートルほど進むと三叉路になっている。 左手に行くとロシア街だ。

ア ジア号のある車庫は、そこを右手に行き、二本目の角を右折して、しばらく行くと車庫に行けるという情報だった。 ところが、その辺に車庫のようなものは、まったく見当たらない。 近所のおじさんやおばさんが行き交う、ふつうの街路ばかりだ。 30分も歩き回って断念した。 私にとっては、本当に幻のアジア号だ。 気を取り直して、三叉路まで戻り、ロシア街に向かった。

直ぐに、 ロシア風の建物が目立ち始めた。 200メートルくらい続く道路の両側のあちらこちらに建っている。 突き当たりまで行くと、広場が有り、周囲はすべてロシア風建築物であった。 その広場では、夕闇の迫る中、数十名のおばさんたちが、輪になって、日本の盆踊りのような踊りを踊っていた。 しばらく、おばさんたちの踊りを眺めてから、同じ道を引き返した。 途中、土産品店で、ロシア名物の、中にいくつもの同じ形の小さな人形が入っている人形を買った。

三叉路で振り返ると、夕闇の薄明かりの中に、数棟のロシア風建築物のシルエットが浮かび上がっている。 それを眺め、しばし、幻想的な雰囲気を味わった。 さて、今晩も、例のセルフサービス食堂で晩飯にしよう。

翌 朝、再び、ホテルの豪華な広間のレストランで、お粥の朝食を食べた。 そして、9時半に受付に行きチェックアウトした。 滞在中、ずっと使用したWIFIルーターは無料とのことだ。 預けてあったデポジットも全額返金してくれた。 背の高いキュートな顔の女性が、笑顔で、また大連に来るのか、と聞く。 私は必ず戻ってくるよ、と答えた。 彼女は、回転ドアを回して、私を送り出してくれた。

5分ほど歩いて、701番バスの停留所に着いた。 直ぐにバスが来て、私は乗り込んだ。 その時、運転手に紙切れに書いた「机場」の文字を見せた。 ホテルの例のキュートな女性が書いてくれたのだ。 机場とは中国語でエアポートの意味だ。 バスは、やはり一時間以上も走りつづけ、見覚えのある大連空港に近づいてきた。 運転手が、次だよ、と私を見て合図してくれた。

何の問題もなく、成田行きJAL828便は、予定どおり午後1時過ぎに離陸した。 この快適な機内で、私は、あの大連の爽やかな風景を、懐かしく思い返していた。

よし、地下鉄が完成したら、もう一度来よう!!

大連賓館(ヤマトホテル)の朝食~大連港からバスと路面電車~三八広場のマック・カフ

7時に目が覚めた。 小窓から中山広場を眺めると、朝の清々しい陽射しの中で、数人の市民が体操をしている。 顔を洗って身支度を整えて、さあ、レストランに行くぞ。

1 階のレストランに入って、あっと驚いた。 すごい豪華な広間なのだ。 50人くらいのパーティーが、できるほどの広さだ。 きっと、この広間では、その昔、男装の麗人・川島芳子や美貌の女優・李香蘭たちが、楽しげに歓談し、ダンスなどに興じたのであろうと、想像をたくましくし た。

朝食の客は、何と私一人だけだ。 給仕係の人が3人居て、料理をテーブルに載せてくれる。 料理と言うほどのこともない、お粥だ。 他には、お粥に入れる漬物類が、数種類あるだけだ。 黙々と、お粥を食べた。 食べながら、この華麗な広間の写真を何枚も撮った。

お 粥を平らげてから、コーヒーは有りますか、と聞いたら、無いという返事。 それでは、お茶をください、と言うと、それも無いという返事。 むむむ・・・さすが、中国! 凄いサービスだ。 しかし、気を取り直し、謝謝(シェーシェー)と言ってレストランを出た。 部屋に戻り、出かける支度をする。

大連港まで歩くのだ。 中山広場から人民路をどこまでも歩き、港湾広場を越えて、突き当たりが大連港だ。 今日も良い天気だ。 周囲の建物や道行く人々を観察しながら散歩する。 何となく長閑な雰囲気がある。 大連は大都市だが、何となく、地方都市のゆったりした穏やかさを保っているのだと思う。 20分も歩いていると、海が見えてきて、大連港はもうすぐだ。

港には目立つほど大きな船舶の姿が見えない。 そのためか、周辺にも人が少ない。 大連港の旅客が乗船する施設建物は、古いセピア写真で見た形にそっくりだ。 きっと、ヤマトホテルなどと同様に昔のままの建物なのだろう。 しかし、残念ながら、建物の中には入れない。 写真を数枚撮ってから引き返すことにした。

20 メートルほど前方に、バスが停まって客が数名乗っている。 多分、市内に戻るバスだと推測して、1元払って乗り込んだ。 バスは直ぐに走り出した。 地図で見ると、港湾広場を越えて、五五路を走っている。 三八広場でバスを降りた。 都合が良い。 ここで路面電車に乗るのだ。 大連駅とは反対方向に向かう電車に乗った。 海が見えるところまで行けるかと思ったが、華楽広場という普通の街並の所が終点だった。

再 び、電車に乗って三八広場に戻って来た。 先ほど、近くにマックが在るのを覚えていた。 ここで降りて、大連のマックを経験することにした。 中に入ると、大勢の客で混んでいる。 マック・カフェが空いていたので、コーヒーを買った。 コーヒーを飲みながらタブレットを試したら、パスワード入力が必要だ。 女性店員に英語で訊ねたら、中国の携帯電話番号を入力するのだと教えてくれた。しかし、外国からの旅行者だから中国の携帯電話は持っていない。 彼女は申し訳なさそうに、他に方法はないのですよ、と言う。 まあ、仕方が無い。

大連マックのコーヒーを味わいながら、イー・ブックを読むことにした。

青泥窪の百年城とマイカル~百年城のデザートショップ~大連駅の反対側(裏側)

大連商場の日本レストランで焼き鯖の昼飯を食べてから、青泥窪商業区を見て回った。 ガラス張りのモダンな外観の百年城ショッピングセンターに入り、上から下まで、ウインドーショッピングした。 大連経済の高度成長を象徴しているのか、とにかく高級品店が多い。

こ の百年城3階の一角に香港デザートの店が在る。 そこに入り、写真メニューで、名前は知らないが、果物のマンゴーと蒸かしたモチ米とアイスクリームが美しく盛られた、結構、高いデザートとコーヒーを頼ん だ。 熟したマンゴーとモチ米とアイスを混ぜて食べると絶妙・絶品の味わいだ。

ここで働くウエイトレスの若い中国女性たちは、キビキビと 動き、英会話も上手だ。 彼女達の顔のメイクアップは、自然で美しく、東京やソウルの洗練された女性たちと何ら変わるところが無い。 そんな彼女達を眺めながら、コーヒーを飲んだ。 ここでタブレットを出してインターネットを試した。 かなり強いWIFIなので、メイルなどを一通りチェックできた。

百年城を出て、斜向かいにあるマイカルに向かった。 マイカルも高級ショッピングセンターの噂どおり、品揃えが、圧倒的に富裕層向けと感じられる。 地下には食品スーパーマーケットや日本食レストラン街があり、大連在住の日本人御用達の所らしい。

青 泥窪商業区から大連駅に向かった。 駅舎の両サイドにある、なだらかな上り勾配の進入路から、旅客は駅舎正面に歩いて向かう。 駅の構内に入れるのは、小さな入口からだけで、そこではチケットが必要だ。 仕方がないので、進入路を戻り、駅舎の反対側(裏側)に行くことにする。

と にかく、すごい人混みだ。 駅舎の反対側に行く地下道への通路には、露店がびっしりと並び、人で溢れかえっている。 人混みをかき分けて前に進み、ようやく反対側に出た。 そこは、大連快軌3号線駅の駅前で、だだっ広い凱旋広場に、やはり人が密集している。 この地下にも商店街が広がっているらしい。 人の多さに圧倒されて、早々に、引き返そうと歩いていると、路端に置かれた赤い小さな看板が目についた。

漢 字で、船員○○○元とか書かれてある人材募集看板だ。 面白いので写真を撮ったら、女性が飛んできて中国語で写真を消せと言っている様子だ。 ああそうか、これは企業秘密なのか。 その若い女性に分かるように写真を削除した。 するとニッコリ笑顔になった。 その笑顔がキュートだったので写真を撮らせて、とお願いした。 すると、Vサインで笑顔のポーズを決めてくれた。 夕陽の中で、一枚の良い思い出写真が撮れた。

明日のホテルの朝食は絶対に逃してはならない。 今晩は、早めに寝よう。 さて、今日の晩飯は、昨日と同じセルフサービス食堂にするか。

・・・・・・何を食おうかな?

寝坊して朝飯を逃す~路面電車あちらこちら~青泥窪商業区フードコート

疲れていたのだろうか、良く寝た。 枕元の腕時計を見ると、ヤバイ! もう9時半過ぎだ。 ホテルの朝食は9時半までだ。 とにかく起きてレストランに行ってみよう。 服を着て顔も洗わず部屋を出て1階のレストランに向かった。 しかし、レストランのドアは無情にも固く閉ざされていた。 受付に行き、とぼけて、朝飯はもう終わったのですか、と聞いてみた。 彼は、にっこり笑顔で、ハイ9時半で終わりですよ、と告げてくれた。 ギブアップだ!

部屋に戻り、顔を洗って出かける支度をした。 まず、路面電車に乗ってあちこちに行きたい。 だが、その前に、この近所で朝飯を食わねばならない。 ホテルを出ると良いお天気だ。 ヤマトホテルを背景に使い、結婚写真を撮影しているグループが5組も居る。 新郎新婦は、目一杯おめかしして華麗なウエディングドレスを広げ、ポーズを決めている。 私も便乗して、数枚の写真を撮らせてもらった。 綺麗な中国のお嫁さんたちだった。

中山広場から民生街に入ったところに、ショッピングセンターがある。 その地下に行くと麺類などの持ち帰りショップが2軒あり、その場でも食べられる。 メニューの写真を指差し、小籠包を頼んで小さなカウンターに座った。 周囲には、買物中の主婦らしい数人の中年女性が食事したり、お茶を飲んだりしている。 蒸すのに時間がかかるのか、十分以上も待って、ようやく小籠包が出てきた。 いやあ、美味そうだ。 卓上の調味料を使いタレを作り、浸して食べる。 熱々で、うまあ~い!

満足して、時計を見るともう11時近い。 民生街を北に向かい、路面電車201番が走っている長江路に出る。 近くに、停留所のようなものが道路の真ん中に有り、数人の人が電車を待っている。 5分もすると、チンチ~ンと懐かしい音がして、緑色の古めかしい電車がやってきた。 大連駅の方向に向かう電車だ。 乗り込むと、結構混んでいる。 備え付けの木製料金箱に1元を入れる。 バスと同じで、どこまで乗っても1元だ。 電車の内部は、すべてニスが塗られた木製の内装だ。 これは、博物館に展示されていても、おかしくない代物だ。

ガタンゴトンと電車は進むが、如何せん、スピードがのろい。 道路上は、ピカピカの乗用車などが縦横無尽に走り回り、路面電車は、取り残された古武士のような風情で、トロトロ走る。 2015年の初夏には開業が期待されている地下鉄が完成したら、路面電車の運命はどうなるのだろうか。 電車は、大連駅前を過ぎて、北京街から大同街に向かっている。 今日は、終点まで行って、引き返し、大連駅前で、電車を降りた。

勝利広場 を越えて、中山路の地下道をくぐり抜け、南西方向に数分も歩くと、青泥窪商業区の真ん中に至る。 周囲には、8軒ほどの大型ショッピングセンターが林立している。 今日は、その中でも老舗の大連商場に入る。 エスカレーターで最上階まで行くと、フードコートとレストラン街が出現する。 日本食レストランが並ぶ東京ストリートまで有る。 もう2時近い。 一軒の日本レストランに入り、焼き鯖定食を頼んだ。 久しぶりの焼き鯖が美味かった。

大満足~!

大連駅前の青泥地下街~友好広場のショッピングセンター~夜の中山広場

大連駅舎を眺めてから、駅前に広がるコンクリート造りの勝利広場を歩く。 この広場の左手から食堂街に入る。 いろいろな食堂が並んでいて、大勢の人々が凄い勢いで、晩飯を食べまくっているという雰囲気だ。 とりあえず料理の種類と値段を見ながら通りすぎて、青泥地下街の方に進む。

ここの地下街は、地下3階まで迷路のように続いていて、同じよ うな小店舗がぎっしりと並んでいる。 途中、ところどころに飲食店があり、人々が旺盛に食事をしている。 ここに入り込んでしまうと、元の場所に戻るのは不可能だ。 一旦、地上に出て、大連駅がどちらの方向に見えるか確認してから、その方角に地上を歩いて戻るのだ。

結局、最初に見た、セルフ・サービス 方式の食堂で晩飯にする。 カウンターから巨大な揚げ餃子と炒飯とスープなどをお盆に乗せて、テーブル席に座る。 ここもカード方式で、先に一定金額を支払い、その金額が入力されたカードで、個々の食事分を支払う。 カードに残った残額は、カードを受け取った所で、いつでも清算してもらえる。 私が選んだ料理は、すべて美味しかった。 きれいに平らげて満足した。

さ て、地上に出たら、もう暗くなっていた。 中山広場の方角にゆっくりと歩いて戻る。 大連の街の中心は広場なので、道路は碁盤状ではなく放射線状だ。 だから、街歩きが極めて難しい。 私は昔、新聞配達をしていたので、方向感覚は優れている方だ。 しかし、大連では、放射線状の道路のため感覚が狂い、迷うこと迷うこと、大変だった。 先ずは、友好広場を目指した。 友好広場は普通のロータリー広場で、青泥街から中山広場に至る中間地点に在る。

この友好広場の周辺にも数軒のショッピングセンターが有 り、その一つの1階にスーパーマーケットが有った。 ここで、今晩用のミネラルウォーターとカットされたスイカを買った。 買物袋をぶら下げて、ショッピングセンターを見て回った。 デザート・ショップで、名前は分からないが写真で選んだ、かき氷にアイスクリームが乗っかったものを食べた。 私は甘党なのだ。

再び、道 に迷いながら、宵闇の散歩を続けて、ようやく中山広場に辿り着いた。 夜になって少なくなった交通量は、広場に入るための道路横断を容易にしてくれた。 広場の中央に立ち、周囲を見渡すと、数々の歴史的な建築物が、各々、華麗な色彩でライトアップされて浮かび上がっている。 まるで、あたかもタイムマシンに乗って、時空を旅しているような感覚に陥る。 その素晴らしさに、思わず、ため息をついた。

周りには、数 人の市民が、思い思いに体操をしたり、好き勝手なことをして、夢幻のような広場の夜を楽しんでいる。 私は十分に雰囲気を楽しんでから、やはり美しくライトアップされているヤマトホテルの正面入口に向かった。 部屋に入り、小窓から中山広場を眺めると、広場の上空には漆黒の闇がひろがり、冴えきったような三日月が、静かに浮かんでいた。

さあ、シャワーを浴びて、眠るぞ~!

大連賓館(旧ヤマトホテル)~中山広場~上野駅に似ている大連駅

その歴史を感じさせる古色蒼然とした大連賓館(ヤマトホテル)。 その正面入口で、長身でスタイルの良い若い女性が回転ドアを回わし、笑顔で私を迎え入れてくれた。 ロビーに入ると左手に受付がある。 男性の担当者が日本語で対応してくれた。 部屋の鍵を受け取り、エレベーターで4階に上がる。 412号室だ。 部屋に入り、荷物を整理する。 小さな窓があり、中山広場を見渡せる。 部屋の備品は、古めかしい代物ばかりだ。

インターネット回線が室内にあるので、小型パソコンを出 して試したが上手く接続しない。 電話で受付の男性に何とかして欲しいと依頼した。 しばらくして、回転ドアで私を迎え入れてくれた女性が部屋に来て、いろいろと接続を試してくれた。 テーブルの下にもぐりこんだり一生懸命にやってくれる。 流暢な英語を話すキュートな中国女性だ。 しかし、接続は上手くいかなかった。 そこで、彼女は、小型WIFIルーターが受付にあるから、それを使いWIFIでやってみようと言う。 その結果、見事に繋がった。 速度は遅いが何とか利用できる。

トイレとシャワーを使い、出かける準備をした。 もうすでに午後4時だ。 中国と日本の時差は1時間だ。 大連空港には丁度お昼に到着したが、例の路線バスの乗り間違いなどのハプニングもあり、空港からホテル到着まで約2時間半もかかった。 チェックインした時、既に3時になろうとしていた。 それから、小一時間、インターネット接続ですったもんだして時間を食われた。 さあ、出かけるぞ!

ま ず、このホテル正面に広がる中山広場だ。 信号のほとんどないロータリーになっていて、広場に入るには道路を横切らねばならない。 交通量が結構多くて怖い。 何とか道路を渡り、広場からヤマトホテルを眺める。 すごく重厚な建物のホテルだ。 ヤマトホテルは、1909年に着工、1914年3月に竣工した。 同年8月から営業を始めて100年の歴史を誇る。 歴史的に有名なリットン調査団やラスト・エンペラーの溥儀、そして、男装の麗人・川島芳子や美貌の女優・李香蘭などが、宿泊したり、ハイクラスな社交場と して利用したのだ。

中山広場の歴史はもっと古い。 1905年以前に、ロシアが、港の整備とパリをモデルにした新都市作りを始めた。 この新都市はダーリニーと呼ばれ、街の中央にある円形広場は、ニコライフスカヤ広場と命名された。 1905年以後、ダーリニーは大連、ニコライフスカヤ広場は大広場、と呼ばれるようになった。 そして、1946年に中山広場となった。 広場は、10本の放射線道路の中心に位置し、その直径は213mだ。 その中山広場の周囲を眺めると、ヤマトホテルと同じく、20世紀初期に建てられた欧風建築物が10棟点在している。 何と、その内の7棟は、日本人建築家の設計という話だ。

中山広場から再び道路を横切って、上海路に入り、そのまま進むと勝利橋に出る。 この橋は、その昔、日本橋と呼ばれていた鉄道橋で、下には数十本の線路が走っている。 装飾の欄干が立派な歴史を感じさせる有名な橋だ。 この橋を渡り、三叉路を左に進むとロシア街に入っていく。 今日は、橋を渡らずに、長江路を進んで大連駅に向かう。 見えた。 大連駅だ。 東京の上野駅をモデルにして設計・建築されたという巨大な駅舎は、実際よく似ている。 しかし、さすが中国、ものすごい人ごみだ。 人の多さに圧倒される。 駅周辺は一大繁華街となっている。

さて、この辺りのフードコートで晩飯にするか。

JAL827便に乗り中国の大連へ~大連国際空港から大連市内へ路線バスで

今朝は5時に起きた。 浅草駅で6時37分発の成田空港行きの特急電車に乗るためだ。 こんなに早起きするのは、JL827便が9時35分発だからだ。 朝飯抜きで、何とか特急電車に乗れた。

成田空港に着いて、コンビニで、おにぎりとお茶を買い近くのベンチで朝飯だ。 それからJALのカウンターに行きチェックインを済ました。 まだ時間が有るので、クレジットカードのラウンジに行き、コーヒーを数杯飲みながら、新聞と週刊誌を読み漁った。

そ ろそろ時間なので、出国審査を済ませて搭乗ゲートに向かう。 直ぐに搭乗が始まり機内に入る。 私は、エコノミークラスだ。 機体はB767で内装は新しい。 映画を見るモニターも大きく10インチぐらいある。 大連国際空港まで3時間20分のフライトだ。 当然、食事も出るので、それが私の昼飯だ。 予定どおりに離陸して予定どおりに着陸した。 さすがJAL。

大連周水子国際空港は、横長の ターミナルビルで、その半分以上が国内用として使われているようだ。 国際用ターミナルは何となく雰囲気が重くて暗い。 パスポート、Eーチケット、ホテル予約確認書を渡して入国審査を受ける。 問題なく通過してベルトコンベアに行き、すでに回っていたスーツケースを受取った。 グリーンサインの税関を通過したら、直ぐに両替所があった。 その場所が雑然としており、何となく敬遠して、外のロビーに出てから両替所を探した。

2軒有ったが、どちらも中国語でいろいろ書いてあ り、よく分からない。 しかし、中国元が無いと動けない。 仕方なく、その内の1軒で1万円を両替した。 伝票を見ると、何と5%の手数料を取られている。 これは痛いが、 気を取り直し、建物の外に出た。 いいお天気だ。 大連市内行きのリムジンバスが有るとの情報を得ていた。 しかし、全く見当たらない。 他の旅客たちは、迎えの車とかタクシーとかで、どんどん去っていく。 その内、周囲に誰も居なくなった。

これはマズイと、国内用ターミナ ルの方に歩いて行った。 人が多くバスも多数発着している。 バス・チケット販売ブースがある。 そこで大連市内行きのバス・チケットを買いたいと英語で言うと、ノーノーという返事しか返ってこない。 すったもんだしていると、他の人が来て、大連市内行きのバスはここから出ない、タクシーで行く他ないと教えてくれた。 それでタクシー代は幾らかと聞くと、滅茶苦茶に高い。 これはアカン!

そうだ、空港から少し歩くが、路線バスが走っているという情報を思 い出した。 閑散とした空港の駐車場を見渡せば、はるか前方に、何やら交通量の多い幹線道路らしきものが見える。 あそこなら、路線バスが走っているかもしれない。 スーツケースを転がして、500メートル以上も駐車場や構内道路を横切って歩いた。 目指す幹線道路に辿り着いて、右手を見ると、有った、バス停留所だ。 運行案内板を見ると、目的地の中山広場行きは、701番バスと記されている。

待 つこと10分、やっとバスが来た。 運賃はどこまで乗っても、たったの1元だ。 座席に身を沈めて、車窓から道路沿線の景色を楽しんだ。 20分も走ってどこかの停留所に着いた。 乗客がぞろぞろ降りて私だけになった。 運転手が降りろと手振りで言ってる。 ええ! ここはバスの終点なのか。 何と、大連市内と反対方向に向かうバスに乗ったのだ。 バスを降りると、別の701番バスが反対方向に出発しようとしている。 慌てて飛び乗った。 再び1元払わねばならないが、僅か十数円だ。

再び、大連空港の前を通過して、路線バスはどんどん走る。 しかし、直ぐにスピードが遅くなった。 ひどい交通渋滞だ。 1時間ぐらい走りつづけて、やっと大連市内に入ったようだ。 しかし、あちらに曲がり、こちらに曲がりしながら、多くの停留所にとまり、乗客を降ろして乗せる。 更に30分以上も市内をぐるぐると走り回ったころ、中山広場が見えてきた。 やっと、大連市内の終点停留所に到着した。 バスを降りて、なだらかな坂を下り、中山広場に向かう。 5分も歩いて、やっと中山広場に辿り着いた。 おお、見えた。 

あれがヤマトホテルだ!

ホテルのチェックアウト~再びインチョン国際空港~アシアナ航空OZ106便

本当に、このホテルの朝飯は最高だ。 もし次、ソウルに来るなら、この朝飯につられて、このホテルを予約するだろう。 チェックアウトは12時だが、11時半ごろに受付に行った。 昨晩、国際電話を一回かけたが、サービスしてくれて追加請求なしだった。 う~ん、ますます気に入った。

名残り惜しく、市庁駅の周りで写真を撮ってから、地下に降りて行った。 次のソウル駅で降りて、空港鉄道駅に向かう。 もうMパスは使えないので、各駅に停車する一般列車の乗車券を購入した。 飛行機は3時10分の出発だから、時間はたっぷり有るのだ。 ホームに降りてしばらくすると、電車が来て乗り込んだ。 やはり、始発なので空いている。 

15分もすると、電車は地上に出て走る。 車窓から眺めると、曇り空で小雨が降っている。 ソウル滞在中の3日間は、爽やかな晴天続きだったが、私との別れを惜しんで、ソウルの空が悲しんでいるのだろうか。

イ ンチョン国際空港に着いて、3階の出発ロビーに上がり、アシアナ航空のチェックイン・カウンターに並んだ。 順番が来て、カウンターの女性担当者にパスポートとチケットを渡す。 若くて溌剌とした美人で、英語と日本語を流暢に話す。 荷物の重量制限など質問したら、丁寧に日本語で教えてくれた。 日本語が上手ですねと褒めたら、心底から嬉しそうな、とびきりの笑顔を見せてくれた。

も う1時すぎだが、朝飯をたらふく詰め込んだので、腹は減っていない。 4時ごろには機内で食事が出るから、それを昼飯にするのだ。 イミグレは、指紋チェック方式で簡単に通過した。 搭乗ゲート付近にやって来たが、まだほとんど乗客は来ていない。 タブレットを出してインターネットを試みた。 おお、すごいサクサク繋がる。 さすがIT先進国の国際空港、強力なWIFIだ。

インター ネットを一通りし終えて、免税品店を見学した。 その時、賑やかな楽器演奏と共に、李氏朝鮮時代の衣装をまとった男女の一群が行列してきた。 旅行客たちは、大喜びで写真を撮っている。 ここでも、貴人衣装の彼らと一緒に記念写真を撮れる、サービスタイムを設けている。 私も記念に、数枚の写真を一緒に撮らせてもらった。

シャワーを浴びたり仮眠ができたりする休息フロアーで、無料マッサージ器を使い、リ ラックスしてから搭乗ゲートに行った。 直ぐに搭乗が始まり、アシアナ航空OZ106便に乗り込んだ。 機体は、エアバスA333の新鋭機で内部も真新しい感じだ。 やはり、東京~ソウル間は花形路線なのだろう。 客室乗務員は、美人ぞろいと言うよりも、愛想が良くて可愛い感じの人が多い。 日本人乗務員も居る。

出発便が混んでいて、滑走路の上で30分近く待たされたが、無事に離陸した。 予測通り、4時ごろに食事が出て、あっという間に、2時間10分のフライトが終わり、成田に着陸した。

素晴らしい3泊4日のソウル体験だった。

また行くぞ~!!

慶熙宮のソウル市立美術館~宗廟と修復中の東大門~梨花女子大学の付近

李舜臣将軍センターを出て、世宗大路を南に下ると、直ぐに大きな交差点にぶつかる。 そこを右折してセムナン路を進み、10分ほど歩くと、慶熙宮の敷地内にあるソウル市立美術館に到着する。 この美術館は、大きなもので内容も充実している。 しっかり見学すると半日はかかるだろう。 今日は、時間が無いので簡単に見て回り、ついでに慶熙宮にも足を伸ばしてざっと見学した。

美術館を出て、セムナン路を戻る。 途中で、KFCが有ったのでチキン・バーガーを買って食べた。 これが昼飯だ。 セムナン路と世宗大路の交差点まで戻ってきて、ふと気づいた。 あそこに見えるガラス張りの奇抜なデザインの建物は、市庁舎ではないか。

何だ、市庁駅から光化門まで、世宗大路を一直線、歩いても20分くらいの距離ではないか。 それを、わざわざ、ぐる~と地下鉄で大回りして、景福宮や光化門に行っていたのだ。 Mパスが有るから良いのだけれど、今までこの事実に気づかなかった。それが旅の面白さだ。

市 庁駅から地下鉄で宗廟と東大門に行く。両方共、1号線上に在るので都合が良い。 宗廟は二つ目の鐘路三街駅だ。 出口を出ると宗廟公園が工事中で塀に囲まれて何も見えない。 細い路地のような道路を通って、宗廟の入口に辿り着いた。 もうソウルは晩秋なのだろうか。 冬が真近いような木立の生い茂った庭園を歩く。 おお、あった。 世界遺産の宗廟だ。 さすがに歴史を感じさせる佇まいだ。 京都の三十三間堂を彷彿とさせる。

次は東大門を目指した。 地下鉄で、更に、二つ目の駅が東大門駅だ。 出口を出ると直ぐに見えた。 修復工事中で、大きな瓦屋根の下から、すっぽりと工事用カバーで被われている。 しかし、立派な大門であることは分かる。 仕方がないので、4号線に乗って次の東大門公園駅で降り、周囲の商店街を見て回った。

東大門公園駅から2号線に乗って、弘大入口駅に向か う。 地図の読み間違いで、昨日、分からなかった博物館をようやく見つけて見学した。 その後、地下鉄2号線を一駅戻って、新村駅で降りた。 この駅は、有名な延世大学や梨花女子大学の最寄駅なのだ。 2番出口を出て、延世路を大学の方向に歩いていく。 道行く若者たちが皆、秀才や才媛のように見える。 この通りにも、串刺し焼肉の露店が多い。 若者たちに混じって、私も一本買い、道端で立ち食いした。 美味かった!

薄暗くなってきたので、地下鉄駅の近くのコーヒーショップに入り、コーヒーとドーナッツを買った。 表通りが見える窓際の席に陣取り、ぼんやりとコーヒーを飲んだ。 通りを行き交う若者たちを眺めながら、ソウルには、もう一度来なければ、と考えていた。

さあ、明日は、東京だ。

景福宮の伝統舞踏ショー~文化体育観光省のカフェ~世宗大路を歩く

今日は忙しいのだ。 なぜなら、数多くの観光スポットを見学しなければならない。 先ずは、ホテルで、美味しい韓式朝食を、腹一杯に詰め込んだ。 そして、一休みしてから市庁駅に向かう。

今 日も秋晴れ、観光にうってつけの清々しい天気だ。 地下鉄で景福宮駅に行き、5番出口から出て、宮殿参観チケット売場に行く。 私は、ついている。 今日は、文化の日なので参観無料とのお知らせが出ている。 そのせいか、外人観光客だけでなく、韓国の小学生や中学生など、子供たちが大勢来ている。 さすがはソウルを代表する観光スポットだ。

広大な敷地に、李氏朝鮮時代の宮殿が、いくつも建ち並んでいる。 ひとつひとつ見学しながら写真を撮る。 北に進み、敷地の西北部に在る高層楼の下に来た。 ここが民俗博物館だ。 その入口前の広場で、何か催しがあるようだ。

華 麗な宮殿衣装を身につけた十数名の美女たちが居る。 鐘や太鼓の楽器を使い、伝統的な踊りを披露してくれるらしい。 観光客たちが、周りを取り囲むように集まっている。 さあ、いよいよ始まった。 秋晴れの陽光の下、激しくも優雅な動作で太鼓を叩きながら、十数名の美女が舞い踊る。 同時に、きらびやかな伝統衣装が花開くように揺れてひろがる。 これは、素晴らしい。観光客たちは、もう夢中で写真を撮っている。

しばらくすると、別の美女グループが現れた。 先ほどとは異なる色彩の衣装をまとい、かなり大きな白扇子を各自が持っている。 始まった。 やはり力強い踊りだ。 扇子を閃かせながら、一直線から円になり、円から波のようにうねり、そして、扇子を開いて集まり、大きな花弁の形を作る。 素晴らしい。 観客たちの大きな拍手が巻き起こった。

その民俗博物館を見学してから、南に向かい、古宮博物館も見学した。 そして、景福宮を守る正門である光化門の下に立ち、この巨大な門を見上げた。 この光化門から、広々とした世宗大路が、南に伸びている。 すぐ 左手には、文化体育観光省のビル。 その3階には歴史博物館があるので、そこも見て回った。 見終えて出口を出ると、小さなカフェが有った。

そ のカフェには、観光客が居らず、ここの役所の職員らしき男女数名が、飲み物を手にして歓談しているだけだ。 静かで落ち着いた雰囲気だったので、私もコーヒーを注文して一息入れた。 何と、私のテーブルから、紅葉に染まる山並を背景にした、光化門と景福宮の諸宮殿が見渡せた。 コーヒーを飲みながら最高の気分を味わえた。

カフェを出て、世宗大路に戻り、南に向かって歩く。 すると、大路の中央に、巨大な李舜臣将軍の像が立っている。 その像の地下に降りると、李舜臣将軍センターという、将軍の偉業を展示している博物館になっている。 そこも見学して、地上に上がり、再び南に歩き続ける。

ああ、天気が良くて、気分がいい~!

明洞の繁華街~両替と昼飯~弘大入口駅付近

安国駅から明洞駅に行くつもりだ。 安国駅から三つ目の忠武路駅で、4号線に乗り換えて一つ目の駅が明洞駅だ。 安国駅のホームで電車が来るのを待っている間に、飲み物の自動販売機で暖かいコーヒーを買った。 小さな紙コップ入りのコーヒーだが、おいしくて安い。 何と300ウォン、つまり、円安の今でも約30円だ。 電車を待つ間に飲みきれる量なので、ちょうど良い。

電車が来たので乗り込み、空席 を見つけて座る。 ちらほらと人が立っている程度の混み具合だ。 乗客は、皆、小綺麗な服装の人々で、マナーも良さそうだ。 忠武路駅で乗り換えて、直ぐに明洞駅に着いた。 やはり、人の数が多い。 6番出口から地上に出て、明洞8キルを北に向かって歩き、この繁華街を縦断するつもりだ。 そこら中お店だらけで、店の前では、若者たちがアイデアを凝らしたコスチュームなどで客引きに懸命だ。

ひととおり歩き回って、ふと気づく と両替屋が有る。 レートを見ると、空港で替えたレートより少し良い。 迷わず、ここで1万円を両替した。 少し歩き続けると、また別の両替屋が有る。 レートを見ると、何と、先ほど替えたレートより更に良いではないか。 これは失敗した。 悔しい!

気を取り直して、もう行きつけとなった ロッテ百貨店のフードコートに行き、昼飯にする。 既に午後2時近いので、フードコートは空いている。 今日は、真っ赤なスンドゥブチゲを注文した。 顔面に汗を浮かべながら食べる。 辛い~! でも美味しい。 午前中、よく歩き回ったので、少し疲れた。 ホテルに戻ってベッドで一休みするのだ。

・・・・・・ おっと、心地よくベッドで寝ていたら、もう3時半だ。 ホテルのベッドで寝るためにソウルに来たのではない。 気合を入れて出かける。 市庁駅から2号線に乗って、五つ目の弘大入口駅まで行くのだ。 弘大入口駅から歩いて15分くらいの所に在るという、女性の人権博物館を見学するのだ。 1番出口を出て、楊花路沿いに歩く、次の駅まで歩いたが見つけられない。 再び引き返して歩く。

やはり、見つけられないので断念した。 弘大入口駅の付近は、大学生と思われる若者たちが行き来していて、活気がある。 弘益路6キルに入り、若者たちで、ごった返しているような通りの雰囲気を味わう。 肉の串刺しを焼いて売る露店が並んでいる。 若者たちが30センチもある串刺しを立ち食いしている。 若い女性も、男たちに比べ少しだけ上品そうに、串刺し肉にかぶりついている。

周囲には焼肉の匂いが充満していた。 私も大いに食欲を刺激されたが、試すのは明日にしよう。 今日は、これくらいで切り上げる。 明日は、ソウル滞在の最終日なので、最重要スポットの景福宮を見学するのだ。

明日が楽しみだ!

徳寿宮の衛兵交替式と慰安婦像

支度をして外出した。 市庁駅の周辺をぶらぶら歩く。 今日も晴天で爽やかだ。 市庁駅の地下通路を通り反対側に出ると、徳寿宮の正門だ。 内部は広々としている。 敷地の奥の方に立派な石造りの建物があり、これらは博物館と美術館だ。 博物館内を見学して外に出たら、正門の辺りが、なぜか騒々しい。 野次馬根性丸出しで、急いで、駆けつける。

おお何と、李氏朝鮮時代のき らびやかな衣装をまとった、宮殿衛兵たちの交替式だ。 迫力満点で、銅鑼や鐘などを打ち鳴らし、多数の幟を押し立てて、整然と行進、整列、交替を行っている。 彼ら数十名もの衛兵たちは、全員が背も高く美男で、まるで韓流の時代劇ドラマを見ているようだ。

しかも、衛兵たちは、サービス満点で、大 勢の観光客との写真撮影タイムを設けているのだ。 外国人観光客たちは、もう夢中になり、大喜びで、写真を撮りまくっている。 30分ほどの撮影サービス・タイムが終わると、衛兵たちは、再び整然と整列して、何処かへと行進していった。

徳寿宮を舞台にした、李氏朝 鮮時代の素晴らしい時代劇ショーだった。 外人観光客誘致の一環として、行われているのだろうが、大したものだ。 このショーの時間に偶然に居合わせた、私はラッキーだった。 非常に気分が良くなった所で、日本大使館まで地下鉄で行くことにする。 最寄り駅は、3号線の安国駅だ。 市庁駅から二つ目の駅で3号線に乗り換えて、一つ目の駅だ。

安国駅から有名な景福宮に向かって8分ほど 歩き、栗谷路2キルを左折すると直ぐに分かった。 建物に日の丸がへんぽんとひるがえり、前面の道路には警察車両が停まり、数人の警察官が付近を警戒している。 日本大使館に用事が有るのではなく、向かいの歩道にある慰安婦像を見たかったのだ。

そこには、あの有名な慰安婦像が歩道の真ん中に鎮座し ている。 周囲には観光客の姿が全く無く、警察官が数人いるだけだ。 私は、歩道の上をゆっくりと歩きながら、その像を眺めて通り過ぎた。そのまま、歩きつづけて、のんびりと周囲の閑静な雰囲気を楽しみながら、散歩した。

地図をみると、仁寺洞が近い。 三峰路から仁寺洞キルに入った。 このファッショナブルなブティック街通りの両側に並ぶ、様々な小物商品を売る店舗を眺めて歩いた。 女性が喜びそうな通りだ。 この通りを出て右折すると、安国駅は、もう目と鼻の先だ。

そろそろ、昼飯にするかな。

市庁駅~南大門~ロッテ百貨店の三角形

ソウルの秋は、爽やかな気候だ。 世宗大路に沿って南に歩く。

10分ほど歩くと、直ぐに、宗礼門(南大門は通称)が見えてきた。 今日は定休日で閉まっているが、中に入る必要はない。 庭園のようになっている周囲をぐるりと歩いて、真ん中にそびえ立っている、堂々と立派な南大門を存分に眺めながら数枚の写真を撮った。

南大門から南大門路に入り、どんどん歩く。 広い歩道には、庶民的な簡易店舗とか靴磨きボックスなどが、あちらこちらに有って、周囲のモダンなビジネス街との対照が面白い。

15分も歩いていると、前方に見たことのある建物が見えてきた。 先ほどのロッテ百貨店だ。 そうか! 市庁駅~南大門~ロッテ百貨店を結ぶと、道路の三角形になるのだ。

未だ5時前だけど、また、同じフードコートで晩飯を食べて、ホテルに帰ろう。 今日はもう疲れた。

真っ黒なタレのかかっているウドンのようなもの(チャジャンミョン)を注文した。 真っ黒なので、今まで敬遠していたが、今回挑戦して見直した。 美味いのだ!!

晩飯を終えて、地下商店街をウインドウ・ショッピングしながら、地下通路を歩いて市庁駅に向かった。 駅のコンコースにあるパン屋で、日本のあんパンとそっくりなパンを一つ買った。 夜のおやつだ。

7番出口から地上に上がり、ホテルに戻った。 市庁駅からホテルまで、慣れると5分で着くと分かった。

ゆっくりと熱いシャワーを浴びて、その後、あんパンをかじりながら、インターネットを始めた。

室内はポカポカと例のオンドル式床暖房で心地よい。 ネットも順調だ。

疲れたので、ベッドにもぐりこんだ。

おやすみ~!

ソウル地下鉄の市庁駅

ソウル地下鉄の市庁駅は、1号線と2号線が利用できる大きな駅だ。 地下のコンコースには、カフェや商店が並んでいる。 各種あんパンを売る店もある。 ここから、有名な繁華街の明洞(ミョンドン)まで、地下商店街を通って行くことができる。

ホテルの所在地を地図で見ると、この市庁駅から10分ぐらいは歩くだろう。 ・・・・・・ふと右手を見ると、目的のホテル・ダエウー・インが見えた。 迷わずに一発で見つけた。 まだ12時前だから、チェックインはできないが、荷物を預かってもらうのだ。

ホ テルに荷物を預けて身軽になった。 これから付近を見てまわり、適当な所で昼飯を食べて、午後2時ごろ、チェックインに戻ってくる予定だ。 ホテルから、世宗大路18キルに出て、右折して明洞の方向に向かう。 歩道が狭いので、人を避けながら歩く。 ちょうどお昼時なので、お目当ての昼飯を求めて、大勢の勤め人が歩道を歩いているのだ。(因みに、キルとは、通りとか道路という意味)

左手に巨大な朝鮮ホテルが見える、その隣はロッテ百貨店で、向かいがヤングプラザ百貨店だ。 そのまま真っ直ぐ行くと、繁華街の明洞の真ん中に入る。 左手に歩いていくと地下鉄の明洞駅だ。

明洞の見学は後の機会にして、ロッテ百貨店に入り、地下のフードコートに行った。 ここで昼飯にしよう。 注文カウンターにはメニューが有り、写真で選び指差しで注文する。 私は石焼ビビンバを頼んだ。 日本円に換算すると円安のため800円ぐらいになる。 高すぎる!

お 金を払うと、円盤型の通報器を渡されるので、それを持って、ビビンバを料理している店の近くのテーブルに陣取る。 料理が出来上がると、通報器が点滅してブーンと振動する。 それを持って行くと、ビビンバを渡してくれる。 ちょっと高すぎと思うけれど、おいしく頂きました。 時計を見ると、そろそろ2時近くだ。 ホテルに帰るとしよう。

受付の男性が、部屋に案内してくれた。 彼の日本語は相当なものである。 部屋は小さい。 東京都心のビジネスホテルと同じくらい狭い。 まあ、安いからしようがない。1泊4千円で、朝食とインターネット込みなのだ。

部 屋にエアコンは有るが、そのリモコンが無い。 彼に聞いたら、これは冷房専用で暖房機能は無いという話だ。 それでは寒いではないかと言うと、韓国では日本と違い、オンドルの伝統から床暖房なのだよ、と教えてくれた。 実際、夜になって冷え込んでも、床がぽっかぽっかとして、部屋全体も適度の暖かさなのだ。

なかなか快適なオンドル式暖房であった。

仁川空港鉄道(AREX)で都心のソウル駅へ

空港ターミナル1階の中央部にある、ソウル市観光案内センターのカウンターに行った。 そこで、Mパスの説明を聞いて、3日間パスを買った。 デポジット込みで3万5百ウォンだ。 このMパスで、ソウル市内の地下鉄とバスが、1日当たり20回まで使える。(今回、私が、目一杯に乗りまくって、1日10回が最高だった) これから乗る、空港発ソウル駅行きの一般列車も、このMパスが使えるのだ。

仁川空港鉄道駅は、空港ターミナルの地下1階から、歩いて数分 だ。 空港から終点のソウル駅まで、ノンストップの直通列車なら43分で走る。 直通列車の運賃は約8千ウォン。 私は、Mパスを使い、各駅停車の一般列車で56分かけて行く。 その差は13分だけだ。 ちなみに一般列車の運賃は約4千ウォン。

Mパス を首からぶら下げて、改札口に向かう。 Mパスを所定の位置に当てると、グリーンランプが瞬いて通過できる。 エスカレーターでホームに降りると、 直ぐに電車が入ってきた。 始発駅なので空いている。 吊り輪は無いが、東京の地下鉄と同じような、通勤電車の座席だ。

駅に停まる度に乗 客が増えてきて、30分ほどで、立ってる人も多くなった。 沿線の普通の住民のようだが、何となく若者が多く感じられる。 ソウル都心に近づくにつれて、乗客も増えた。 気がつくと、地下を走っている。 あっと言う間に、一時間弱が過ぎて、ソウル駅に到着した。 ここは、もうソウルのど真ん中なのだ。 私は、スーツケースを転がして電車から降りた。

長いエスカレーターに乗って地上に向かうと、 モダンなソウル駅ビルのコンコースに出る。 旅人たちは、ここで各地方都市に向かう列車の切符を買い、ホームに降りて出発するのだ。 この駅ビルは、巨大な商業施設になっていて、レストランやデパートなどが入っている。 ぐるりと一回り見学してから、駅ビルの間近にある地下鉄1号線の入口に向かった。

私のホテルは、次の地下鉄駅、市庁駅の近くなのだ。 改札口が狭いので、中型のスーツケースを苦労して通過させる。 もちろん、Mパスを使うので切符を買う面倒は無い。 エスカレーターでホームに降りた。 ソウルの地下鉄は、ホーム・ドア方式なので安全だ。 電車が来て乗り込むと昼前の11時半頃だが乗客が多い。 2分ほどで市庁駅に着いた。

あ~疲れた~!

韓国のインチョン(仁川)国際空港

アシアナ航空OZ736便は、順調に深夜の飛行を続けていた。 ほぼ満席の機内は、照明が消されて薄暗い。 眠っている乗客や、本を読んでる人、映画を見ている人など様々だ。 時たま、客室乗務員が、飲み物を配っている。

機 内の照明が明るくなり、後1時間ほどで着陸するというアナウンスがあった。 インチョン国際空港に着陸するのだ。 ベトナムとの時差は、日本と同じで2時間だ。 ベトナムの朝4時つまり韓国の朝6時に、B777の機体は、ゆるやかな降下に入った。 約5時間のフライトで6時45分に着陸予定だ。

窓からキラキラ光る海面が見えるようになると、シートベルト着用サインが点灯した。 ゆっくり降下していく。 20分ほどすると、海面が手の届くような近さに見える。 直ぐに、ゴットンという振動音がして主車輪が降りた。 いよいよ着陸だ。ドドド~ン、ズズズ~ン。 まあスムーズで良い着陸だ。

ちなみに、私の知る限り、着陸が一番上手いのは、ベトナム航空のパイロットたちだ。 彼らは、巨大機で、フェザータッチ着陸ができるのだ。 それは、ともかく、無事にインチョン(仁川)国際空港に到着した。 朝6時45分の定刻到着だ。 いよいよ韓国に着いたのだ!

乗 務員たちの爽やかな笑顔に見送られ、寝ぼけ顔で飛行機を出る。 途中の検疫ポイントには、早朝にもかかわらず、数人の担当者が目を光らせている。 ここでもエボラ出血熱は、非常に恐怖なのだ。 入国審査場には、すでに大勢の人々が列を作っている。 ハングル文字が理解できないので、一番すいてる列に並んだ。 ところが順番が来て、若い女性審査官に旅券を出したら、ここは韓国人だけと言われ、別の列を指された。

指された列に行くと、なるほど、「外人用」と英語のサインがある。 それほど待つことなく、順番が来て、ここも若い女性審査官だ。 両人差し指を、指定場所に置いて、指紋チェック方式だ。 一言も会話せず、審査官がテキパキと仕事して、わずか2分後、無事に通過できた。

先 ずは、韓国ウォンが必要だ。 ここで、いくらか両替しないと動きが取れない。 何ヶ所か両替所をチェックした。 ほとんど同じレートだが、わずかに差がある。 もっとも良いレートの所で、1万円を韓国ウォンに替えた。 この空港ターミナルは、地下1階から4階までだ。 地下1階には、庶民的なレストランやその他商店が並んでいる。 1~2階が到着階、3階が出発階、4階は展望階で高級レストランやコーヒーショップが在る。 この展望ロビーで、コーヒーとドーナッツを買い、そこで一息入れた。

ああ、あくびが出る・・・・・・眠いわ。

アシアナ航空ソウル行き機内

出発の50分ほど前に、アシアナの客室乗務員たちが、ぞろぞろ集まってきた。 搭乗口の脇に集まって、行儀よく事前の打ち合わせをしている。 全員が美人で背も高い。 出発の30分前に、搭乗が開始された。 私は、エコノミークラスなので、焦って乗っても仕方がない。 のんびりと、乗客の長い列が短くなるのを待つ。

客室乗務員たちが忙しそうに、通路を行ったり来たりしている。 先ほどの印象では、少しツンツンしているのかと思ったが、さすがに機内では、愛想良く笑顔で働いている。 乗客への対応も、なかなか感じが良い。 そのまま、韓流ドラマに出演できそうな、綺麗な容姿の乗務員たちだ。 何となくハッピーな気分になる。 さて、いよいよ離陸だ。

シート・ ベルトが、ちゃんと締まっているか確認する。 毎度のことながら、緊張の一瞬だ。ゴンゴンゴンとスピードが上がり、B777の巨大な機体が滑走路を突進していく。 おいおい、どこまで滑走して行くのと、心配になるころ、フワッと機体が浮き上がる。 機首を持ち上げて、ぐんぐんと上昇していく。 窓の外をちらりと見ると、ホーチミン市街の巨大なイルミネーションの瞬きが見える。 直ぐに、白い雲海を突き抜けた。 更に、巡航高度を目指して、暗闇の中を上昇し続ける。

機体が水平になると、しばらくしてシートベルトのサインが消えた。 客室乗務員たちが、シートから離れ、彼女達の仕事にとりかかった。 私は、早速、ヘッドホンをつけて、ビデオ映画を見る準備に専念する。 余り興味を引く映画がない。 しかし、ハリウッド映画を選んで、SFアクションを見始めた。 エイリャンが地球を攻撃する、完全なB級ムービーだ。

JAL とANAの日本に向かう深夜便では、離陸後は飲み物だけで、到着前に朝食が出される。 これがベトナム時間で朝の3時半ごろのため、食欲がもうひとつだ。 ところが、アシアナでは、離陸後に飲み物が出て、直ぐに食事も出される。 いや、これは知らなかった。 だから晩飯をしっかり食べて自宅を出てきたのだ。 でも、なかなか内容の充実した焼肉系の食事だ。 デザートもついている。 結局、一粒残さず、ペロリと平らげた。

大満足~!!

アシアナ航空ソウル行き

今回の旅は、韓国のアシアナ航空を使う。 初めて乗る航空会社なので、期待でわくわくしてくる。 深夜の出発で、明朝の6時45分に、ソウルの仁川(インチョン)国際空港に到着する予定だ。 チェックイン・カウンターで荷物を預けて、搭乗券を受け取った。

今 回の航空券は、クムホ・アシアナ・プラザの6階にある、アシアナ航空支店で発券してもらった。 このプラザは、ホーチミン市内のレ・ズアン通り、アメリカ総領事館の向かいに在る。 実は、パソコンで予約して、全てをオンラインで、済ませようとしたが、最終場面でクレジットカード支払いが、うまくいかなかった。

うまく いかない理由は、どうもパソコンのOSの関係らしい。 私は、ルブンツというフリーOSを使っているのだが、MSでないとダメなのかな? よく分からないが、仕方がないので、上記の支店まで出向いて、発券してもらった次第だ。 航空券の代金は、オンラインよりも20米ドルほど高くなった。

何とも・・・・・・悔しい!