その歴史を感じさせる古色蒼然とした大連賓館(ヤマトホテル)。
その正面入口で、長身でスタイルの良い若い女性が回転ドアを回わし、笑顔で私を迎え入れてくれた。 ロビーに入ると左手に受付がある。
男性の担当者が日本語で対応してくれた。 部屋の鍵を受け取り、エレベーターで4階に上がる。 412号室だ。 部屋に入り、荷物を整理する。
小さな窓があり、中山広場を見渡せる。 部屋の備品は、古めかしい代物ばかりだ。
インターネット回線が室内にあるので、小型パソコンを出
して試したが上手く接続しない。 電話で受付の男性に何とかして欲しいと依頼した。
しばらくして、回転ドアで私を迎え入れてくれた女性が部屋に来て、いろいろと接続を試してくれた。
テーブルの下にもぐりこんだり一生懸命にやってくれる。 流暢な英語を話すキュートな中国女性だ。 しかし、接続は上手くいかなかった。
そこで、彼女は、小型WIFIルーターが受付にあるから、それを使いWIFIでやってみようと言う。 その結果、見事に繋がった。
速度は遅いが何とか利用できる。
トイレとシャワーを使い、出かける準備をした。 もうすでに午後4時だ。 中国と日本の時差は1時間だ。
大連空港には丁度お昼に到着したが、例の路線バスの乗り間違いなどのハプニングもあり、空港からホテル到着まで約2時間半もかかった。
チェックインした時、既に3時になろうとしていた。 それから、小一時間、インターネット接続ですったもんだして時間を食われた。 さあ、出かけるぞ!
ま
ず、このホテル正面に広がる中山広場だ。 信号のほとんどないロータリーになっていて、広場に入るには道路を横切らねばならない。
交通量が結構多くて怖い。 何とか道路を渡り、広場からヤマトホテルを眺める。 すごく重厚な建物のホテルだ。
ヤマトホテルは、1909年に着工、1914年3月に竣工した。 同年8月から営業を始めて100年の歴史を誇る。
歴史的に有名なリットン調査団やラスト・エンペラーの溥儀、そして、男装の麗人・川島芳子や美貌の女優・李香蘭などが、宿泊したり、ハイクラスな社交場と
して利用したのだ。
中山広場の歴史はもっと古い。 1905年以前に、ロシアが、港の整備とパリをモデルにした新都市作りを始めた。
この新都市はダーリニーと呼ばれ、街の中央にある円形広場は、ニコライフスカヤ広場と命名された。
1905年以後、ダーリニーは大連、ニコライフスカヤ広場は大広場、と呼ばれるようになった。 そして、1946年に中山広場となった。
広場は、10本の放射線道路の中心に位置し、その直径は213mだ。
その中山広場の周囲を眺めると、ヤマトホテルと同じく、20世紀初期に建てられた欧風建築物が10棟点在している。
何と、その内の7棟は、日本人建築家の設計という話だ。
中山広場から再び道路を横切って、上海路に入り、そのまま進むと勝利橋に出る。
この橋は、その昔、日本橋と呼ばれていた鉄道橋で、下には数十本の線路が走っている。 装飾の欄干が立派な歴史を感じさせる有名な橋だ。
この橋を渡り、三叉路を左に進むとロシア街に入っていく。 今日は、橋を渡らずに、長江路を進んで大連駅に向かう。 見えた。 大連駅だ。
東京の上野駅をモデルにして設計・建築されたという巨大な駅舎は、実際よく似ている。 しかし、さすが中国、ものすごい人ごみだ。
人の多さに圧倒される。 駅周辺は一大繁華街となっている。
さて、この辺りのフードコートで晩飯にするか。
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