竹 鶴政孝は、1894年(明治27年)、広島県竹原市にある作り酒屋の3男として生まれた。 大阪高等工業学校醸造科を卒業後、摂津酒造に入社。 1918年(大正7年)、社命によりスコットランドのグラスゴー大学に留学した。 遠い異国で、政孝はホームシックにかかった。
そんな頃、政孝は開業医一家と親しくなった。 その一家の長女がリタだ。 ジェシー・ロバータ・カウン(愛称リタ)は、1896年(明治29年)、英国グラスゴー郊外の医師の家庭に3人姉妹の長女として生まれた。 政孝との出会いは、リタが22歳の初夏だった。
<グラスゴー大学 >
恋に落ちた二人は、出会いから半年後に、周囲の反対を押し切って結婚した。 それからの政孝は、愛妻を得て、蒸溜所の実習で素晴らしい成果を上げ、ウイスキーづくりの自信を深めた。 リタとの結婚が、政孝の運命を開いたのだ。
こ うして二人は、日本に向かう船に乗った。 日本でのリタの課題は、日本の生活に馴れることだった。 リタは日々努力を重ね、結果、日本の女性以上に日本人らしい女性になった。 日本語も熱心に学んだ。 政孝を初めは(マサタカサン)と呼んでいたが、次第に縮まり(マッサン)と呼ぶようになった。 マッサンとリタは、人もうらやむ仲睦まじい夫婦だった。
マッ サンは、すぐにウイスキー蒸溜所を建設するつもりだった。 しかし、日本経済は、不況の真っ最中で、摂津酒造は莫大な投資ができなかった。 マッサンは摂津酒造 を退社した。その後、約1年間、自宅近くの中学で化学教師をし、リタは英語とピアノを教えながら家計をまかなった。
そ んなマッサンに、大正12年の春、寿屋(現サントリー)の社長、鳥井信治郎が訪れた。 鳥井も国産ウイスキーづくりを夢見 ていた。 政孝は10年契約で寿屋に入社し、ウイスキーづくりに専念して山崎工場を設立した。 こうして、昭和4年の春、日本初の本格ウイスキーが生まれた。
10年の契約期間が過ぎ、マッサンは、昭和9年3月に寿屋を退社した。 同年7月、マッサンが、ウイスキーづくりの理想郷と考えた北海道余市町に「大日本果汁株式会社」を創立した。 リンゴ・ジュースや果汁ゼリーをつくり、ウイスキーができるまでの繋ぎ商品とした。
昭和15年10月、初めて独力で生み出したウイスキーを、マッサンは、「大日本果汁」を略して「ニッカ(日果)ウヰスキー」と命名した。 ウイスキーづくりを夢見て、スコットランドに渡ってから、22年の歳月が流れていた。
体 があまり丈夫でなかったリタは、60歳を過ぎてから入退院を繰り返すようになった。 64歳の誕生日を迎えた1ヶ月後の昭和36年1月17日、マッサンに看取られながら永眠した。 リタの墓は、余市蒸溜所を見下ろす美園町の墓地に建てられた。 マッサンは、リタの墓に、自分の名前も一緒に刻んだ。 あとは、ただ自分の命日を入れるだけだ。
「ウイスキーづくりにトリックはない」 これはマッサンが生涯持ち続けた信念であり、口癖だった。 世界でもまれな石炭直火蒸溜、この伝統的な製法を守り続けているのは、世界で余市蒸溜所だけと言われる。 職人の年季と勘による微妙な火の加減が、果物が熟したような芳香のモルト・ウイスキーを作る。 マッサンは、理想のウイスキーづく りを追い求めながら、昭和54年8月29日に亡くなった。 享年85だった。
<エディンバラ>
スコッチ・ウイスキーとは、スコットランドで製造されるモルト・ウイスキーのこと。 モルティングとは、大麦を発芽させて麦芽を作ることをいう。 麦芽を乾燥させる際に燃焼させる泥炭(ピート)に起因する、独特の煙のような香り(スモーキー・フレーバー)が特徴だ。
モ ルト・ウイスキーの原料として使用される大麦は、粒が大きくデンプンを多く含む二条種だ。 大麦には種を蒔く時期によって春麦(スプリングバーレー)と冬麦(ウインターバーレー)があり、春麦を使うのが普通だ。 なお、ウイスキーはイギリスにとり5大輸出品目の一つで、その規模は、ほぼ全世界の200か国に輸出し、金額は日本円にして約6000億円だ。
スコットランド人気質は、安易に妥協しない、あくまで独自性を主張して、理不尽なことには断固として反対する。 たった一人になっても一人だけで絶対に反対する。 そして、自分が正しいと思うことは、どこまで主張し続け、最後には逆転させるというしぶとさだ。
メル・ギブソン主演映画ブレイブ・ハートに見られるスコットランド魂は、英国人(ジョンブル魂)の更に上手を行くような頑固さらしい。
そうすると、スコットランドの独立問題は、まだまだ長引きそうですね。
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